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人生と運命

演劇のこと、日々のことの備忘録

2016.10.29『かもめ』東京芸術劇場プレイハウス

10月29日から東京芸術劇場プレイハウスでチェーホフ原作、熊林弘高演出の『かもめ』が上演されている。初日のチケットが運よく手に入ったので見に行った。

 

僕はチェーホフの『かもめ』が好きだ。作品の中には哀れで惨めな登場人物が沢山登場する。惨めな生活をする女優、悩む劇作家、一流女優気取りの母親。『かもめ』の幕切れを考えれば、これは悲劇なのだと思う。だけれども、きっとそうじゃない。チェーホフがこれを『喜劇』と著したように、ここにはおかしみや悲しみの先にある希望が表れている。だからこそ、ニーナは「信じ切ること」と言って暗い巡業の旅に出発したのだ。そこには一羽の自由なかもめの姿が重なる。そこにある(女性の)意思と決心の物語は、『ワーニャおじさん』にも『三人姉妹』にも『桜の園』にも通底している。沼野充義氏の言葉を借りれば、「七分の絶望と三分の希望」こそが、チェーホフの戯曲の根底にあると僕は思う。

 

そんななかで、見た今回のチェーホフ『かもめ』はどうだっただろうか。
舞台は非常にシンプルな作りで、椅子とピアノしかない。
熊林氏は小劇場で活躍しているためか、このようなセットを好むのだと思う。でも、プレイハウスは800人を収容できる大きな劇場だ。案の定、その大きな空間を活かせていなかった。そうなってしまうと、舞台上にある椅子もピアノもただ苦し紛れに空間を埋める小道具になってしまう。

 

小劇場と大劇場のギャップは役者にもあるように思えた。
翻訳劇ということもあり、普段の言い回しとは違う台詞がたくさんある。だからこそ、よりはっきりとした発声が求められる。しかし、聞き取り困難な部分が多くあったのが、残念だった。比較的前の席だったのに聞き取れなかったので、恐らく2階席の人たちは絶望的に聞き取れなかったと思う。ゲネプロでそこを確認しなかったのだろうか。

あとは、やはりニーナの人物造形がよくわからなかった。煙草を震える手でふかしたり、大声で喚いたり、まるでただの古典的ヒステリー持ち女優に成り下がっていた。ただ僕の思っているニーナ像とは、違っていた。演技はうまかったけど。

思い出されるのは、先週上演されたトーマス・ベルンハルト原作、クリスチャン・ルパ演出の『伐採』だ。こちらの内容も芸術家の理想と現実、醜悪さ、名声と共に失われる理想と才能を表した5時間を超える舞台だったが、見事だった。字幕の読みにくさを除いても、大劇場を目いっぱいに使ったセットや演出は非常に優れていたし、こんなにも抽象的で地味な大作が上演され評価されるポーランドの演劇文化の高さを思い知った。

今回の『かもめ』を観ながら、そんなことを考えた。それくらい、悲しかったのだ。前週にルパ『伐採』を見たから尚更だった。

もうしばらくは、大きな劇場には行かないだろう。もともと値段が高くて行けなかったとのもあるけれど。
さようなら、思い出のプレイハウス。さようなら。