2017.01.22『夜組』ジエン社
夜に起きるようになってしまってから、数か月経つ。
起きるのはたいてい、相撲中継が終わったあとだ。夏の間はそれでも日が差している時間もあったが、この季節になると寒さとともに、街は喪に服したような昏さになる。
川の近くの街だ。
電力は制限される前から、この街の夜はもともと昏い。この昏さの中、『死んでるさん』と呼ばれる死者が徘徊していると聞いたが、俺はいまだに出くわしたことのない。
川の近くに、キリン型の鉄塔がある。
そのキリン型の鉄塔の近くに、携帯型ラジオを持っていく。夜、その鉄塔の付近でのみ、声を拾えるラジオがあるのだ。俺はその声を聴きに行く。
「家族! ……本当の家族には言えないあなたの日常を送ってください。採用された方には、ひょんめんみゃんもんすう、もうぺんはるもにあ、あごす、よごるよごろてりあ、まくろまふすう……」
深夜のラジオだ。時々、人間ではない違う生き物の言葉も入ってくるのは、この鉄塔が気持ち悪いせいだと思う。
「本当の家族には言えないあなたの日常」を送るという、そういう趣旨のコーナーにもかかわらず、投稿リスナーたちは次から次へと、ありえないシュールな日常を送ってくる。投稿のあまりの狂いっぷりに、パーソナリティの二人は笑い続ける。狂った言葉と、笑い声が、死体の匂いのする川の、小さい範囲に響いている。なぜこのラジオは、ここで聞けるのか。そもそも電力が制限されている中、深夜に聞けるラジオなんて、どうして存在できるのだろう。こんなに人が死んでいるさなか、どうして俺はまたここに、ラジオを聞きに来たんだろう。
向こう側で、誰かがこっちを見ている。昏くてよくはわからない。見ることはできない。ただ、存在するときに立てるわずかな音と、気配で、
何かがいるようなことだけはわかるのだ。
俺は思った。あいつも、俺も、「夜組」なんじゃないか、と。
The end of company ジエン社 第11回公演
『夜組』
脚本・演出 山本健介
会場:池袋シアターKASSAI
2017年1月13日(金)~23日(月)
ジエン社は第60回岸田國生戯曲賞で『30億光年先のガールズエンド』がノミネートされ、近年注目の若手カンパニーとして取り上げられることも多い。昨年オープンした早稲田小劇場どらま館のこけら落とし公演を行った劇団としても知られている。
この劇団の特徴を表すのは「同時多発会話」と言われる手法である。会話や場面が一つの舞台上で同時に展開され、それぞれの場面に一見無関係に見える場面が影響しあい、シームレスに繋がる、非常に洗礼された技法である。開演前には既に俳優がひとり、ラジオを聴きながら背を向けて座っている事からもわかるように、この劇団は平田オリザ氏の現代口語演劇(青年団)に大きな影響を受けており、継承しているとも言える。しかし、この劇団は場面だけでなく、時間や空間をもシームレスにつなげる点で、平田オリザ氏とは違う、独自の現代口語演劇を導きだしているように思われる。
新作の『夜組』はまさに夜がテーマの作品だ。舞台は計画停電中のどこかの都市、それは私たちに、既に忘れ去られてしまったあの時の東京の暗闇と、震災を思い起こさせる。登場する人物は昼の世界を生きることのできない『夜組』の人たちだ。疲弊してしまった人、全てを失った人、家族に囚われる人、「きれいに」壊れてしまった人、それでも寛解を目指すひと。契機は大なり小なり震災が見え隠れする。
ジエン社の得意とする「同時多発会話」を通して、場面は重なり、登場人物は入れ替わり、生と死もつながり、時間と空間を飛び越えてシーンは繋がる(死んでるさん、という登場人物は象徴的だ)。そこにある両義性を通して、自分自身も昼組から夜組に入れ替わってしまうような追体験を得る、そして震災以前のもとように生きられない(正常であろうとする「寛解」状態として生きていかなければいけない)ことを強く感じさせる。
終わり方もどこか切ない。傷が癒える事もなく、夜を脱することもなく、夜のまま終わる。きっと、傷は癒えないままなのだろう。
この舞台は「ラジオ」がモチーフになっている。ラジオを受信するために停電の夜に一人ラジカセを持ち歩く少女や、仕事ができずラジオを聴き続ける男。
ラジオを聞くという営みは非常に個別的で、パーソナリティーは自分自身に語り掛けてくる。でも、その電波の向こうには同じような名もなきリスナーが沢山いて、ハガキ職人たちは、ラジオが個別的な営みではなく、「様々なひとり」が無数にいることを証明しているようだ。そこには親密さがある。ラジオが混線するように、ノイズが混ざるように、場面は展開する。そういう意味でも、同時多発会話がとても効果的に働いていた。
最後の場面はとても印象的だ。途切れてしまった電波を探す。
未子「まだ、ほんの少しだけ、残ってました。電波」
未子「これ、聞き終わるまで、もう少しだけ、ここにいていいですか?」
ツルハシ「・・・・・・ええ。」
未子「まだ、夜ですもんね。夜が終わるまで・・・・・いいよね。」
ツルハシ「もう少しで、夜が明けますけどね」
未子「なーんか・・・・・。私たちって、朝が夜みたいな感じじますよねー」
ツルハシ「これから寝るから、そうですよねー」
夜が明けないまま、舞台は終わってしまう。でもそこには、微かな光が見える。とても重い足取りでも、夜は明けるのではないだろうか。リスナーとラジオ職人が「ひとりの私たち」の存在を証明し、パーソナリティーが「ひとりの私」に親密に語り掛けるように、傷が癒えない人にも親密さを持って、隣に立つことはできるのではないだろうか。寛解への道は遠くても、隣に立ち、歩くことはできる、と最後の場面は語っているように思えた。舞台上の人物が見せる他者により沿い、相手を気遣う姿はまるで、祈りのようであった。
探している運命の人に出会えないし、過去を変えられないし、誰かになり替わることもできないし、出来事をなかったことにもできない。でも、ただ寄り添うことはできる。それしかできないという悲しみでもあり、それはできるという希望でもある。
演出の山本健介は、この舞台を作ったとは思えないほど、物腰の柔らかい青年だった。彼は2011年から6年が経った今でも、震災に拘っている。その真摯さと心強さは作品によく表現されていた。
震災を契機とした演劇作品で優れているものとしては、イェリネク『光のない。』飴屋法水『ブルーシート』があるが、今回の山本健介氏の『夜組』も、震災後の演劇作品として珠玉の出来だと思う。再演の予定はないようだが、是非多くの人に見てもらいたい作品だった。
2016.10.29『かもめ』東京芸術劇場プレイハウス
10月29日から東京芸術劇場プレイハウスでチェーホフ原作、熊林弘高演出の『かもめ』が上演されている。初日のチケットが運よく手に入ったので見に行った。
僕はチェーホフの『かもめ』が好きだ。作品の中には哀れで惨めな登場人物が沢山登場する。惨めな生活をする女優、悩む劇作家、一流女優気取りの母親。『かもめ』の幕切れを考えれば、これは悲劇なのだと思う。だけれども、きっとそうじゃない。チェーホフがこれを『喜劇』と著したように、ここにはおかしみや悲しみの先にある希望が表れている。だからこそ、ニーナは「信じ切ること」と言って暗い巡業の旅に出発したのだ。そこには一羽の自由なかもめの姿が重なる。そこにある(女性の)意思と決心の物語は、『ワーニャおじさん』にも『三人姉妹』にも『桜の園』にも通底している。沼野充義氏の言葉を借りれば、「七分の絶望と三分の希望」こそが、チェーホフの戯曲の根底にあると僕は思う。
そんななかで、見た今回のチェーホフ『かもめ』はどうだっただろうか。
舞台は非常にシンプルな作りで、椅子とピアノしかない。
熊林氏は小劇場で活躍しているためか、このようなセットを好むのだと思う。でも、プレイハウスは800人を収容できる大きな劇場だ。案の定、その大きな空間を活かせていなかった。そうなってしまうと、舞台上にある椅子もピアノもただ苦し紛れに空間を埋める小道具になってしまう。
小劇場と大劇場のギャップは役者にもあるように思えた。
翻訳劇ということもあり、普段の言い回しとは違う台詞がたくさんある。だからこそ、よりはっきりとした発声が求められる。しかし、聞き取り困難な部分が多くあったのが、残念だった。比較的前の席だったのに聞き取れなかったので、恐らく2階席の人たちは絶望的に聞き取れなかったと思う。ゲネプロでそこを確認しなかったのだろうか。
あとは、やはりニーナの人物造形がよくわからなかった。煙草を震える手でふかしたり、大声で喚いたり、まるでただの古典的ヒステリー持ち女優に成り下がっていた。ただ僕の思っているニーナ像とは、違っていた。演技はうまかったけど。
思い出されるのは、先週上演されたトーマス・ベルンハルト原作、クリスチャン・ルパ演出の『伐採』だ。こちらの内容も芸術家の理想と現実、醜悪さ、名声と共に失われる理想と才能を表した5時間を超える舞台だったが、見事だった。字幕の読みにくさを除いても、大劇場を目いっぱいに使ったセットや演出は非常に優れていたし、こんなにも抽象的で地味な大作が上演され評価されるポーランドの演劇文化の高さを思い知った。
今回の『かもめ』を観ながら、そんなことを考えた。それくらい、悲しかったのだ。前週にルパ『伐採』を見たから尚更だった。
もうしばらくは、大きな劇場には行かないだろう。もともと値段が高くて行けなかったとのもあるけれど。
さようなら、思い出のプレイハウス。さようなら。